感情の機微を表現していく

最近わたしのテーマとして現れた「機微」ということば。妙にこの言葉をきいたときに、そうだ、私が扱いたい、そして寄り添いたいのは感情の機微だとどこからか、降ってきた、降りてきた感覚があった。

 

機微と聞いて、漢字はどんな漢字だっけ?と調べたのですが。。ね。

 

今日はマンツーマンの病児保育。マンツーマンが私にあっている。一人にがっつり寄り添える。病児保育をしていると、お熱が急に上がっていくときのなんとも言えない不安定さを経験することがある。だいたいのことは対処できると思っているし、ひとりで保育していても大丈夫!という何というか、自分への信頼や、子どもの生きる力への信頼、助けを求める体制の確保ができているという背景はある。

わたしには、ちょっとした心配や、この状態でお預かりスタートしたら、もう間も無く熱があがってくるだろうな、という勘みたいなものがある。

お昼くらいにお熱がマックスまであがってきたとき、

自分が心配したり、不安に感じていることをなにも、感じないようにしていたなぁと、他の人が来てくれたときに、気づいた。わぁーって、でてきたものがあったのだ。

 

これらを感じて表現していくことが私のテーマなのかも?!どうやらそうみたいだ。

 

いつ頃から封印していたのかな。感情を感じたり表現することを。

第二子産後くらいからのような気がする。

全く封印していたことに気づかなかった。割と扱えているつもりだった。

感情に気づくときは、だいたいが怒りの感情だったから、感じてはいけないし、出してはいけないとしていたのだなぁ。と。

 

でも、怒りの裏には悲しみがあるよね。

本当には怒りの裏にある悲しみがあることを怒りを感じないようにすることで気づかないようにしていたんだなぁ。

 

そんなことを考えていたら、またイラっとすることが起きて、でもそれはちゃんとコミュニケーションできた。

 

「あるものがないものとされていた」ことだった。

あるものはちゃんとあると、してほしい。そこにあるのだから。存在しているのだから。

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全世界に対して私自身の心からのお願いとして、そんな願いがあることを知った今日。