見えること、聞こえること

デンマーク帰国後一番最初に私の脳裏に残ったニュースは児童虐待のニュースだった。後を絶たない、子どもが亡くなるニュース。

虐待の疑いがあると認識されながらも、引っ越しを繰り返し、市や県をまたぎ、情報が引き継がれていながらも、子どもの命が守られない、亡くなってからニュースになる問題の数々。

 

自治体の関連する職員は、面会したけれど、あざはなかったと言い切っていた。

 

制度や自治体のあり方もあるけど、見える人が見ていなければ、その子に本当にあざがあっても見えてないんじゃないの?と思った。

 

見える人にはうっすらでもあれば、見える顔のあざ。

 

本当に子どもを守ろうと思って、さらに見える人がみていれば、あざがあることが最優先の確認事項であったのならば、見えたんじゃないの?と思った。

 

子どものSOS、体に最初に出ると思う。

それが、本当に見える大人がみることができて、一人でも多くの尊い命が守られることを切に願っている。

 

そして、私は見える人だと思う。(視力は悪いけど)

娘は聞こえる人なのだと思う。(よく滲出性中耳炎になり耳の聞こえはよくないけど)

 

私は見ることで確認し、娘は聞くことで確認する。ものごとの本質を。起きてくることのほんものさを。

 

そろそろ気づいたことを記しはじめないとパンクしそうになってきたので記します。